翌日、病院に出勤した私は真っ直ぐに大樹の医局を訪ねた。
トントン。
「どうぞ」 声を聞いてからドアを開ける。「おはよう」
「ああ、おはよう。朝からどうした?」 「あの・・・梨華のことだけど・・・」大樹の顔つきが変わった。
ジーッと見つめられると、言葉が続かない。
「梨華がどうした?」
「実は昨日うちのマンションに来て、泊まっていったの」
「何で連絡しないんだ」 やはりそうきたか。「ごめん」
「父さんも母さんも心配してたんだぞ。昨日のうちに一言言えよ」 「だから、ごめん」 何で、梨華のせいで私が叱られているんだろう。「まあ、さっき母さんから梨華が帰ってきたって連絡があったけどな」
「はあぁ」 私はポカンと口を空けてしまった。「あのね大樹。梨華をあまり叱らないで」
つい言ってしまった。大樹が梨華や私を心配してくれているのはよく分かっている。
ありがたいとも思っているけれど、少し過干渉ぎみ。「いい加減、お前も帰ってこないのか?」
また・・・ 「ごめん」 「ごめんばっかりだなあ」 「・・・」大樹は肩をポンッと叩いて、
「母さんも父さんももう若くはない。お前が嫁に行く前に、もう一度一緒に暮らしたいと思ってるんだ。分かってやれ」ごめん、兄さん。
梨華みたいな妹だけでも大変なのに、私みたいな意固地な妹までいて、きっと苦労が絶えないよね。「ごめんなさい」
「まあ、急いでもしょうがないから。ちゃんと考えてくれ」 いつもの優しい顔になって、大樹が笑った。優しくて、厳しくて、頼れる存在。
いつまでたっても、大樹はいい兄さんだ。***
考え事をしていた私は、廊下で渚にぶつかりそうになった。
「おい、どうした?」
「あ、ごめん」
チラチラと辺りを見渡し、人がいないことを確認する。
「今、帰り?」
「もう少しで終わる。妹、大丈夫なのか?」 「うーん、大丈夫と訊かれると・・・」昨夜、梨華が泊まっことはすでに知らせてある。
「ああいう子だから」
としか答えられない。よく考えると、渚と梨華はどこか似ているのかも知れない。
もちろん、渚は几帳面で、いい加減なことが出来ない性格だし、梨華のようにフラフラしたところはないけれど、自分に正直で周りに左右されないところはとても似ている。***
大樹の医局から戻った私は、朝の申し送りの行われている病棟センターの片隅で受け持ち患者のチェックを始めた。
うん、みんな安定している。
今日の午前中は病棟勤務のため、そんなにバタバタすることもないはずだ。「じゃあ、お先に失礼します」
仕事を片付けた渚が、病棟センターに声をかける。「お疲れ様でした」
ドクターや看護師達の声が重なった。その時、
「すみません」 4年目の看護師、恵子さんが随分慌てた様子で駆け込んできた。「どうしたの?」
ただならぬ様子に、師長も心配そうな声になる。「305の三島さん。今日は午前中に内視鏡で大腸カメラなんですけれど・・・ヘパリン停止の指示が出てないんです」
はああ?
その場にいたみんなが絶句した。ヘパリンとは血栓の出来やすい患者さんが血栓予防のために使っている薬で、血液サラサラの薬なんて言われたりもする。
普段は決して止めることの出来ない薬だけれど、使っている間は血栓が出来にくい代わりに血も止まりにくくなる。 その為、手術や処置の前にはあらかじめ薬を中止する必要があるのだ。 内視鏡で大腸カメラの予定と言うことは、もしポリープや腫瘍があれは切除したり、一部切り取って検査に出す必用が出てくるわけで、血液サラサラの薬は止めなくてはならない。「ど、どうしたの?」
騒ぎを聞きつけて、担当医の森田先生がやって来た。「先生、へパリン停止の指示が出てないようですが」
師長が尋ねる。「ええ?検査6時間前から止めてくださいって、昨日伝えたよね?」
そう言うと、受け持ち看護師の恵子さんを見た。ああー。
私は思わず天を仰いだ。「何、止まってないの?なんで?止まってなかったら、検査が出来ないよ。検査の時間にあわせて家族も来るのに、どうするんだよ」
研修医1年目の森田先生は怒りに任せて文句を言うが、さすがにここまで看護師を責めるのもどうかと思い、私が足を踏みだそうとしたとき、
「何で、私が責められるんですか?先生が指示を出してなかったんですよね。口頭で伝えたって意味ないですよ」
恵子さんが言い返した。今度は、森田先生が黙り込む。
確かに、非があるのは森田先生だ。 でも、なんとなく釈然としない気持ちでいると、「それは、違うんじゃないの?」
まだその場に残っていた渚が、口を開いた。「医者と看護師が責任をなすりつけ合ってどうするの?そんなことしても患者さんの為にはならないんだから。確かに、きちんと指示を出さなかった森田先生に責任があると思うけれど、君だって受け持ち患者の指示が出てないことに気付いて森田先生に伝えることは出来たんじゃないの?」
「・・・」 恵子さんは黙って唇を噛んでいる。「森田先生。今からでもヘパリン停止の指示出して、内視鏡には検査を午後にしてもらうように依頼して」
「はい」 「師長。家族に連絡して検査が午後になると伝えてください」 「はい」 みんな一斉に動き出した。残されたのは悔しそうな恵子さん。
あーあ、これで恵子さんは渚のことが嫌いになったな。でも、私は知っている。
この後で渚は、森田先生を呼び出してコンコンと説教をするんだ。 自分にも他人にも厳しい人だから、後輩の間違いを黙って見逃すはずがない。入院して1ヶ月。毎日ベットの上でおとなしくしているせいか、血液検査の結果も比較的安定してきた。まだいつ何があるかも分からないし、いつまでおなかで育ててあげられるのかも分からないけれど、ひとまず安定期にも入った。渚はいまだにつきっきりで寝泊まりしてくれている。みのりさんも母さんも大樹も毎日やってくるし、父さんもたまにだけど顔を出してくれる。「ねえ渚」1人せっせと病室の掃除をしている渚を呼ぶ。「何?どうした?」「あのね」私は一旦深呼吸をして、真っ直ぐに渚を見た。「もうそろそろ沖縄に帰らない?」「・・・」何を言われたのかわからないって顔で、私を見る渚。「あのね、私もできるならこうして一緒にいたいのよ。でも渚だって、そろそろ仕事がしたいでしょ?」「なんで急にそんなことを言い出すんだよ」いきなり私に帰れって言われて、渚はやはり不満そうな顔になった。「私の体調も良くなったし、働きもせずにここにいるのは人としてダメだと思うの。親である前に、1人の人間として真っ当に生きなくちゃ」渚のことだから親から援助で生活しているはずはないけれど、貯金を崩すぐらいのことはしているだろう。そんな生活を続けるのは、はやり良くない。「じゃあ、ここに復職するよ」それでいいだろと言いたそうな顔。「それはダメよ。沖縄のお父さんがあなたを待っているのよ。帰ってあげなくちゃ」自分でも何を言っているんだろうと思う。私だって本心では渚と離れたくはないけれど、やはり沖縄に帰るべきなのだ。「樹里亜はどうするんだ?」ふて腐れ気味に渚が口にした。「私は出産までここで頑張って、その後はちゃんと父さんと話すわ。時間はかかるかも知れないけれど、父さんを納得させた上で渚を追いかける」「沖縄に来る気?」「ええ」私はコクンと頷いた。
数日後、たまたま誰もいない時間に父が病室を覗いた。「1人か?」「うん。渚はみのりさんと出かけてる」「お母さんだろ、気を付けなさい」「はぁい」あーあ、言い直されてしまった。確かに、彼のお母さんを名前で呼んでる私って非常識かもしれない。病室に入ってきた父は、窓際に置かれたソファーにどっかりと腰を下ろす。父とはここしばらく冷戦状態のはずだけれど、一体何の用事だろうと私もソワソワしてしまった。「彼はいつまでこっちにいる気なんだ?」え?もしかして渚が目障りだとでも言うのだろうかと、ムッとしながら父を見返す。「なあ樹里亜。父さんが古い考えなのかも知れないが、男は仕事が一番でなきゃダメだと思うんだ。もちろん色んな生き方があるだろうし、それを否定する気はない。でも、お前も同業者だから分かるよな、いついなくなるか分からない医者なんて信用できない。病院に入れば、家族に病人が出ても、目の前の患者を診なくちゃいけない。私の知っている高橋君は優秀で、仕事が好きな若者だった」うん、知ってる。渚は救命の現場が好きだったし、彼の能力を生かせる職場だと思う。「そろそろ帰してやらないか?」「それは・・・」私は返事ができなかった。「お前は、母さんから自分の出生の状況を聞いたんだよな」「うん」もちろん驚いたけれど、話してもらってうれしかったし、そのことを機会に両親や家族に対する見方が変わった。「お前の誕生には少なからず私にも責任があると思ってきた。だから、厳しくもしたし、やりたいことは何でもさせてきたつもりだ」確かに、私立中学からわざわざ公立高校に行きたいと言ったときも、東京のお金がかかる大学に行きたいと言ったときも、反対はされなかった。一人暮らしだって、始めは反対されたけれど結局は認めてもらった。「今回のことも、お前が望むことなら仕方がないと思っている。ただ、い
月子先生の診察には、当然渚もついてきた。 本当は1人で行きたいけれど、やはりそうもいかなかった。 「渚、先に帰っていいよ」 「いや、一緒に行くよ」 「どうぞ」 少し不機嫌そうな月子先生に呼ばれ、私と渚は診察室へと入った。 「へー、意外ね。先生がパートナーだったの?」 「黙っていてすみません」 マジマジと渚を見つめる月子先生に、渚が頭を下げる。 その後、ちょっとの間だけ渚に説教をたれた月子先生は、私の診察を始めた。 「うーん。あんまり良くないわね。貧血が進んでるし、血小板も落ちてきている」 「はあ」 相づちを打ちながら、なんだか嫌な予感がした。 月子先生がこんな言い方をするときは、入院を勧められるとき。 嫌だなあ・・・ 「しばらく、入院する?」 やっぱり。 私は黙り込んでしまった。 「入院が必要な状態なんですか?」 渚が身を乗り出した。 「そうね、入院しないといけないって程の状態ではないけれど、赤ちゃんや母体のこと、その先の出産を考えるなら入院して治療する方をお勧めするわね」 月子先生も相手が渚だから、いつもより言葉を選んでいる印象だ。 「あのー、後1週間だけ自宅安静じゃダメですか?」 それでも私はねばってみた。 できれば病院ではなく、家で休みたい。 「樹里亜、わがまま言うなよ。入院してちゃんと治療した方がいい」 どうやら渚はすっかり入院のつもりになっているらしい。 それを聞いた月子先生も点滴や検査のオーダーを始めている。 これで、私の入院が決まってしまった。***そのまま
渚とご両親が我が家を訪問して以来、父が口をきいてくれなくなった。同棲のことも、渚とのことも一切触れようともしない。「父さん、怒っているのよね」「怒らせた覚えがあるでしょ?」母に訊いても、当然よと返されてしまう。それでも、母とみのりさんは何度か外で会っているらしい。私も携帯を返してもらい、渚と連絡が取れるようになった。この先どうなるんだろうと考えると目の前には不安しかないが、こんな状態で家を出れば2度とここには戻れないだろうと分かっているから軽はずみなこともできない。渚は、「いざとなれば、沖縄を捨ててこっちに来る」つもりらしいが、出来ればそうはしたくないとも言っている。その気持ちは私も同じだ。「樹里亜、今日病院でしょ?1人で行くの?」ああ、そうだった。「うんん。渚と一緒」「そう」私は今日、初めて渚と検診に行く。***「なんだか恥ずかしいね」何て言いながら、元勤務先の病院へ渚と一緒の受診。 当然、受付でも、待合でも、次々と声をかけられた。 「樹里先生。おめでとうございます」 「あらー、お似合いですね」 「うそー、知りませんでした」 言われるたびに、私は渚の手をギュッと握った。 ずっと、この手を握りしめたいと思っていた。 だから、もう離さない。 「竹浦さーん。竹浦樹里亜さーん」 名前を呼ばれて診察してへ入ると、いつも診てもらっている産科の先生が迎えてくれた。 30代前半の若い女医さんだけど腕は確かで、今だって渚には気付かない振りをしてくれている。 産科ってデリケートだから、普段からパートナーについては詮索されない。 今までだって、『赤ちゃん
普段は使うことのない10畳の和室に、私と父さんと母さん、向かい合って渚とご両親が座った。「お話を伺います」あくまでも堅い表情の父。すると突然、渚が座布団から降りて両手をついた。凄く凄く緊張していた私は、その後渚が何を言ったのかハッキリとは覚えていない。ただ、「樹里亜さんとお付き合いしています」「順番が逆になりましたが、子供が出来ました」「真剣に将来のことを考えています」そんなことを言って、頭を下げた。渚のご両親も低姿勢で、「息子が申し訳ありませんでした」と謝られた。「お話の主旨は分かりました。が、納得は出来ません。子供が出来るような付き合いならもっと早く打ち明けてもらうべきだったと思います。今更こんな風に来られても、はいそうですかと嫁には出せません」父さん・・・あまりの剣幕に、誰も何も言えなかった。「高橋君。私は君を信頼していた。真面目で仕事の出来るいい若者だと思っていた。がっかりだよ」「すみません」渚がうなだれている。妊娠も私の家出も渚が一方的に責められることではないはずで、むしろ責任は私の方にあるのにひどすぎる。そう思ったら、私は黙っていることができなかった。「渚だけが悪いわけではありません」「樹里亜、やめなさい」母が止めたけれど、私は止まらなかった。「父さん、渚だけを責めるのはやめてください。私だって、父さんが思うような娘じゃありません。この3年、私はあのマンションで渚と同棲していました。平気な顔をして家族を騙していたんです。それでも渚だけを責めるんですか?」感情にまかせて一気に言ってから、少し後悔した。父さんと母さんの寂しそうな顔が目に飛び込んできたからだ。「樹里亜、やめろ」怒ったときの渚の声。「だって」渚ばかり責められるのは辛い。「
実家に帰って1ヶ月。おかげさまで体調も良く、私も子供も順調。梨華は最近別人のようにおとなしくなり、母さんや父さんにも素直に受け答えしているし、私のことも気遣ってくれる。一方渚は、お父様との話し合いに苦戦しているらしい。まあね、3年以上音信不通の息子がいきなり帰ってきて「子供ができた」では、怒らない方がおかしい。許す代わりにお父様が出した条件は、沖縄に帰ってくること。当然だと思うけれど・・・難しい問題だ。「もー、樹里亜も梨華も早く食べなさい」母に急かされて、私は今日も朝食をかき込んだ。ピンポーン。その時、玄関のチャイムが鳴った。朝8時半。こんな早い時間に誰だろう。「奥様」玄関から戻ったお手伝いの雪さんが、怪訝そうに母を見る。「どなた?」「それが・・・」母が聞くけれど、雪さんはハッキリ言わない。しかたなく母が、玄関へ向かった。「樹里亜」しばらくして、私を呼ぶ母の声。私も玄関へ向かった。何だろう?ヒョコヒョコと玄関へ向かった私の足が、ピタリと止まってしまう。嘘・・・目の前に立っているのは3人。みのりさんと、色黒の男性。そして・・・渚。見た瞬間に涙が溢れた。「な・・ぎ・・さ」声にならない声が漏れる。ウウ、ウウッ。私はすぐにも駆け出しそうになった。すぐにでも、渚の胸に飛び込みたかった。「樹里亜」しかし、母の声で私の動きが止まる。「梨華、お父さんを呼んできてちょうだい」いつになく厳しい声に、梨華は黙って父さんの書斎に向かった。多分短い